インタビュー:卒業生の活躍
母校と日本拳法への愛情を原動力として学生を力強く応援
山本 隆造 氏(全日本学生拳法連盟会長/公益財団法人日本拳法会副会長/一般社団法人日本拳法競技連盟副会長/大樟体育会会長 37 回)
1948年、和歌山県生まれ。1967年、和歌山県立星林高等学校卒業。1971年、本学経済学部卒業。1972年、株式会社島精機製作所入社。1998年、同社西日本・中日本営業統括本部長。2003年、株式会社ニットマック代表取締役就任(2009年、退任)。2011年、西日本学生拳法連盟会長就任、本学日本拳法部総監督。2014年、大樟体育会会長。2015年、全日本学生拳法連盟会長。2019年、一般社団法人日本拳法競技連盟副会長、公益財団法人日本拳法会副会長。本学評議員。
全日本学生拳法連盟会長として
「卒業間近の4回生に、記憶と記録を残してやりたかった」。コロナ禍のもと、全日本学生拳法連盟会長として、全日本学生選手権大会の開催可否に悩んでいたとき、黙々と練習に打ち込む学生たちの様子を各大学から伝え聞いた。大会関係者と選手の意見を集約し、開催を決断。感染防止策を徹底し、2020年の師走に無事大会を終えた。多くの出場選手や大会関係者から感謝の声が届いた。
日本拳法との出会いは本学入学時。勧誘されて日本拳法部に入部した。部員数は40人と多く、2回生のとき全日本学生選手権大会で優勝し、御堂筋でパレードしたのが一番の思い出だ。キャプテンとして部員を率い、安全を守る責任について学んだ。強い打撃や関節技で、けがや骨折をすることもある。人の命を大事にすること、自らの身を守るため究極まで練習することを心がけた。日本拳法を通して、他の大学の選手と親しくなったり、愛校心を育んだりできたのも収穫だった。日本拳法部は、1971年、72年にも全国優勝している。
生え抜きの社員として就職先でも頭角を現す傍ら、日本拳法部の立て直しも
卒業後の1972年、コンピュータ編機製造などで知られる和歌山の企業・株式会社島精機製作所に就職。第1次オイルショックによる不況で経営危機が起こったとき、幹部役員に掛け合い、取引先150余社を集めて説明会を開いた。「倒産しません! 資金繰りはしっかりしている」と強く訴え、銀行がそれを後押ししてくれた。その後、所属していた資材部から、希望する営業部へと異動し、めきめきと頭角を現した。四国営業部所長から、大阪支店長、やがて幹部役員となる。
大阪支店長就任の年に、本学日本拳法部のコーチに就任。監督を経て、現在は総監督。この間、部員数が減り存続の危機に陥った時代もあったが、徐々に成績を伸ばし、現在は全国ベスト8の実力である。
一方で2007年、西日本学生拳法連盟の常任理事に就任。その頃、学生時代山本さんと共に「三羽烏」と呼ばれた龍谷大学・京都産業大学のOBから「学生たちに、企業の組織論を教えてやってくれ」と声を掛けられたのだ。その後も活動を続け、現在は全日本学連会長ほか、拳法会副会長と日本拳法競技連盟副会長も務める。
在学生のみなさんへ
本学の学生たちに向け、「スポーツ推薦で入学した部員と一般入学の部員は、競技と学問分野で互いに支え合うこと。また、状況判断能力を身につけ、緊急時に行動できるようになること。他の大学の学生とも交流して視野を広げること」と助言。「コロナ禍で大変な世の中ではあるが、過去にも、人類はインフルエンザなどの感染症を乗り越えてきた。何か問題が起こったとき、コロナのせいにして諦めるのでなく、どうすればできるのかと考え、前を向いてがんばろう!」と呼びかける。自身も、全日本大会で本学の学生に自らの手で優勝旗を手渡す日が来ることを願って頑張ってきた。
最後に、山本さんから「コロナ禍で苦労する学生やクラブ活動への支援のため大樟会から母校へ寄付が行われたが、これに対し大樟体育会会長として本学学生になりかわって、深く感謝します」とお礼の言葉があった。
(聞き手=広報部・天野康弘)
こちらは 同窓会誌「澱江56号」掲載の記事です
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