大阪経済大学・大樟会の歴史

揺籃期(1932~1935)

大阪唯一の私学商高として誕生

本学は昭和7年4月、浪華高等商業学校として設立、大阪市南区瓦屋町の仮校舎(旧日本之本旅社屋)において授業開始。本学の誕生は、産業都市大阪市における唯一の私学高商として、社会要求に適したものと評価を受けていた。
しかるに学校設立行為に関して紛争がおこり、10年3月、生徒たちは学年末試験を放棄して、同盟休校事件に発展、しかも容易に解決を見ず、遂に廃校の危機に瀕した。
しかし大阪財界の有力者と京都帝国大学および大阪商科大学の関係者は、在校生徒の前途を憂い、また廃校の社会的影響をおそれ、学校更生のために心血を注いで東奔西走された時代であった。

  • 校舎新築(昭和9年10月 旧B館)

  • 校B館建築地鎮祭

  • 雨天体操場で授業

  • 全国大会・高専学生講演大会

  • 映画と音楽の会

  • 庭球部・水泳部

  • 同盟休校から再生まで一連の新聞記事

  • 昭和7・8年頃の上新庄駅

創設期(1935~1943)

創設…そして太平洋戦争へ

教育に最も必要とするのは物的設備より、教師と生徒との人格的・精神的結合である。
本学は在来の高等商業教育に加えて、一般教養を重視した教育方針ですすむ。
荒廃していた校庭を、生徒諸君が自らの労働と献金によって緑化し、清澄な学園を造りあげていった。
人生はマラソン競争のようなもので、諸君はこの競争にのぞむ準備として本学に入学したのだから、つとめて研学修道に励み、健康な身体と確固たる信念を捉うこと。(昭和12年度入学式黒正巌校長訓辞より) 社会背景には戦時色が次第に濃厚となり、繰り上げ卒業が行われ、太平洋戦争に突入する。

  • 昭和高等商業学校の記章と学旗

  • 教授陣の顔ぶれそろう

  • 欧米実業研究視察のため渡欧される黒正校長

  • 昭和15年度前期試験時間割

  • 全学年懇親旅行:琵琶湖や瀬戸内の船旅など。

  • 先生たちの寄せ書き

  • 学園づくり:教授も生徒も額に汗して勤労奉仕。くすのきの植樹やグラウンド整備。

  • 志那経済研究所新築:北京市に開設した中華経済研究所に呼応して本学にも建設。

  • 旧食堂:食べ盛りの生徒の胃袋を一手に引き受ける。

転換期(1944~1948)

学徒動員、終戦、そして復興

学徒出陣で昭和高商生徒募集中止。昭和19年より大阪女子経済専門学校となる。教授陣、校舎そのままを女子生徒が引き継ぐ。20年は学徒戦時動員令で工場へ、学校も日立造船上新庄工場として旋盤機が据え付けられる。8月敗戦、虚脱状態となる。21年5月以降、大阪経済専門学校としていち早く男女共学制を導入。復員学徒を迎え、物貨欠乏時代にも拘わらず、生徒たちは和気あいあいのうちに灰色から脱皮し、学園らしく復興させていった。その間、黒正校長は旧制第六高等学校校長として去られ、そのあと菅野和太郎先生、大北文次郎先生が学園を統括、経営的にも非常に困難な時代に尽瘁された。

  • 空襲で焼け野原となった道頓堀付近

  • 学徒戦時動員:爆撃を避けて地下工場で精算に従事する女子学徒艇身部隊

  • 男子生徒歓迎演劇会

  • 授業風景:女子教育は初めての先生方。

  • 門標と女子生徒

  • 校庭で

  • 体育祭「男女7歳にして席を同じうせず」から解放

  • 天六から学校の傍らを大阪市営バス開通

  • 経専混合合唱の放送

大学昇格(1946~1963)

生徒・教授陣が一丸となって学昇昇格運動を推進

戦後、教育改革実施に伴ない、学園は新制大学か短期大学かの二者択ーを迫られた。生徒たちは大学昇格運動に情熱を傾け、教授陣と一丸となって推進していった。文部省への請願活動や、当時北白川にあった日本経済史研究所蔵書の運搬に積極的に奉仕するなど数数のエピソードがあり、意気込みがうかがえる。
昭和24年大阪経済大学設置認可。黒正博士が初代学長に就任され、喜び合ったのも束の間、9月に黒正学長が急逝される。しかし悲嘆を乗りこえ、29年B館の増築(旧図書館)を皮切りに、A館、摂津に第2グラウンド造成、学生寮、C館を新築し、漸次新制大学として学園を整備していった。

  • ふいに来校された黒正学長 おもいがけず本学最後の写真となる

  • 故 黒正巌博士大学葬

  • 逍遥歌楽譜 今もなお卒業生も在校生も愛唱している

  • 角帽姿の学生群

  • ハワイアンバンド演奏

  • 学生集会所・食堂新築

  • C館新築

  • 学生寮新設

  • 三研究所合同資料室

大学中興期(1964~1970)

教学の充実、そして大学紛争へ

経営学部を昭和39年に新設して、2学部となり、徐々に定員増をはかる。
41・3年に大学院経済研究科修士・博士過程を設置、経済系専門の大学として教学の充実をみる。39年、戦前から親しまれていた大隅グラウンド内に図書館、保管研究室・事務棟を新設。
相次いでD館、学生会館、体育館を竣工。摂津グラウンドはさらに拡張造成、45年からは体育科目受講にスクールバスが一役担うことになる。茨木市郊外に校地を求めたのもこのころ。半面、大教室での授業がふえ、マスプロ化を呈してくる。その後全国に吹き荒れた大学紛争で本学も44年9月末から学舎封鎖、痛ましい荒廃に出会う。

  • 本館・図書館建築

  • 図書館閲覧コーナー

  • クラーク博士「青年よ、大志をいただけ」の額がある閲覧室

  • 大教室での授業風景

  • 大学院経済学研究科(博士課程)設置

  • 山小屋(白馬ヒュッテ)開設

  • クラブ活動

  • クラブ活動

大学近代(1971~1982)

大学改革と研究環境の整備に尽力

学園紛争終結後、大学改革への道のりは思いもよらず険しい。校地の拡張策をとらず、専ら地道な諸条件改善を選ぶ。教室の騒音防止・空調設備、図書館全館冷房・電動書架増設、本館西棟事務室増築など。
昭和54年からはコンピュータを教学用にまず設置、56年からは小型ながら事務処理用も増設して将来へ漸進。56年から推薦入学制度を導入している。57年11月 創立50周年の宣言。これを契機としてさらに教育・研究諸条件整備に鋭意検討を加え、その実現に向けて努力している。

  • DENKO

  • 大樟祭風景

  • 大樟祭風景

  • 南学生クラブ棟新築

  • 入学式、受験生の検問

  • 合格発表風景

  • ゼミ風景

  • 創立50周年記念宣言